ホーム > 栗物語 > 栗の起源
韓国では正確にいつから栗の木を植えたかは定かではない。しかし今から約2000年前、楽浪(アクラン)時代のものと推定される墓で数粒の栗が見つかったと言われている。また、1700年前の中国の晋代に編纂された「三国誌」の馬韓という部分には、「馬韓では梨ぐらいの大きさの栗が生産されている」という記録がある。そして1550年前、宋代の後漢書という書物にも馬韓の人々は農耕を営み、蚕を飼い、機を織り、大きな栗を生産しているが、その大きさが梨ぐらいだと書いてある。そして唐の魏微(ぎちょう)の髄書や李延壽の北史という本にも大きな栗が生産されているという記録がある。
韓国栗は韓国の全域、特に京畿道以南の地域に自生して栽培されてきた。韓国栗は以前は朝鮮栗または朝鮮在来種と呼ばれ、日本栗の一種の変種として取扱われてきた。韓国栗は日本産の栗に比べて外観上は劣るが、内皮が薄くて脱穀しやすく、果肉の色も濃い黄色で、粒も相当大きくて貯蔵力も良い。しかし韓国栗を日本で栽培すると、韓国栗の特徴が現れない。
韓国栗がいつから栽培されたかは定かではないが、随分昔から栗の木を保護してきたらしい。韓国では米無しで冬を凌ぐことができても、薪無しでは冬を凌ぐことができないと言われるほどオンドルには多くの燃料が必要であり、そのため林の樹木の乱伐が行われた。その結果他の樹種の大きな木は殆んどなくなってしまった反面、栗の木は結構太くて高い木も残っていて、この点からして昔から栗の木を貴重に扱ったということがわかる。韓国で栗はナツメ、松の実と共に冠婚葬祭において欠かせない必需品であった。韓国には栗の字が入った地名がたくさんある。栗を貴重に思っていた証拠でもある。なお、京畿道の栗の産地である始興郡北面の一部、新東面、果川面、南面、西以面一帯は高句麗時代に栗木郡と呼ばれ、新羅時代の景徳王によって栗津郡に改称され、その後、高麗時代に果州郡、朝鮮時代に果川郡と呼ばれたそうである。いずれにせよ栗と深い縁を持っている名称で、数百年前から栗を重んじてきたことがわかる。
韓国では栗を法典で保護勧奨した記録が残っている。つまり、高麗時代の睿宗(えいそう)13年(1118年)及び明宗18年に桑の木、漆の木、楮(こうぞ)の木、ブナの木、梨の木、なつめの木とともに土地の性質によって植栽しなければならないと規定していた。

朝鮮時代初の法典である経国大典(1485年)によると、官吏に植栽管理を命じ、これを疎かにした者を処罰した。また、漆の木、桑の木などと一緒に栗の木を伐採した者も処罰した。李朝22代目の英祖大王は産業を振興させた王で、栗木敬査官に栗の産地について調べさせたこともある。そして経国大典に引き続き成宗23年(1492年)に続大典が編纂されたが、これを見ると栗を生産する農民には国に提供する夫役を免じたが、雑役の免除された地域は京畿道果川、高陽、江華、楊州、南陽、富平などで、昔から栗の生産地として有名であった地域である。なお、栗の木の木材が貴重だったのでこれを生産して保護する目的から国で栗の木保護林(栗木封山)を指定した事実が記録されている。東国與地勝覧(成宗11年(1480年)と1513年)及び慶尚道邑誌(純祖、1801~1835)によると、慶尚南道昌原に日本栗が導入されて栽培されたという記録がある。

[山林経済]と[通俗山林叢書]、[林園十六志]では栗が救荒食料であるのみならず、祭事にも使われる果実であると記録されている。そして栗の木は祭事に使われる位牌や祭事器具を作るのに多く使われた。このように栗と栗の木は祭礼儀式に使われるほど高い比重を占めていることがわかる。いろんな古書に登場しているように栗は一般人が容易に手に入れることのできる食材であり、宮廷でも多様な調理法でよく食されていた食べ物であった。

このように韓国では栗を非常に大事にし、昔から保護してきたので数多く生産され、李朝時代の末期には栗の木に多くの税金を賦課したため、帳簿に記録されていない幼い木は切り倒され、木が老衰して枯死しても新しく植えなくなって栗の木の林が荒廃してしまった。特に、ソウル近辺の被害が著しかった。その後、日清戦争及び日露戦争の時代には鉄道建設のために多くの伐採が行われた。しかしその後、栗の栽培が再び奨励された。昔は韓国栗は救荒食料として重要な食品であった。[朝鮮王朝実録]の世宗実録を見ると、「害虫によって米が凶作になってしまったので栗やどんぐりを採取して凶年に備えなければならない」と載っており、「凶年の時は栗とクヌギを拾って生活しなければならないので、山と野を燃やすことを禁じるべきである」と記録されている。このように栗は救荒食料として重宝に使われたことがわかる。

[朝鮮王朝実録]粛宗実録を見ると、「兵士たちが村に植えた栗の木を全部切って民に害を与える」という内容がある。この内容からみると、恐らく民は栗の木を家の近くにたくさん植えていたと見られる。

[朝鮮林野主要副産物]という朝鮮総督部で発行した書物を見ると、松の実、銀杏、椎茸などの収穫予想量が書かれているだけでなく、ブナの木類の果実の予想収穫量も書かれている。ブナの木類の果実には栗が含まれるが、これによって栗の収穫量が少なくなかったことがわかる。

韓国では、中国栗系統の集産地が平壌だったので平壌栗(薬栗)と呼ばれた。中国系統の栗は平壌を中心に50Km以内(平安南道成川郡、江東郡、順川郡、中和郡、江西郡などが主な産地)に限定され、中国の山東省及び河北省で生産されるものとほぼ同一の形態をしていることから、中国からの伝来であることが明である。

江西郡地方の栗は、昔咸従の海辺(郡と面の併合以前は咸従郡、併合後は江西郡プンジョン面またはジャンアン面付近に該当する地域)に中国の難破船が辿り着いたが、その船の中には栗があって、その栗は小さいが甘味が強くて本国の栗と比べて大変美味しかったので貴重に思い、これを播種栽培し始めた。その後次第に周りに伝わり、また野生動物によって山間地方に伝わったという。

成川地方における中国系統の栗の輸入経路は江西地方とは異るそうだ。つまり成川は往来の多い北朝鮮地域の都市として中国との交流が活発だったため、中国から渡ってきた和尚、またはこの地方から中国へ留学に行った留学生から伝来されたと思われる。咸従地方、成川地方のいずれにせよ、いつ伝来されたかは確かではないが、平壌は高句麗時代中期以来の都であった。そしてこの時代には中国との交流が盛んだったので、この時代に輸入されたものと推定される。

平壌付近では中国系統の栗を薬栗と呼ばれて貴重に扱われ、平壌栗という名前で有名になったのは日本植民地時代である。そして江西郡咸従面一帯で生産される咸従栗は甘くて内皮が薄いので皮が剥きやすく、甘栗として適し、広く知られるようになり、成川以外の地方でも有名になって、徐々に生産量が増えた。